グレート・ギャツビーがなぜ読めなかったのか

 本を読むということは、異なる世界にふっといざなわれる体験であると言ってしまうと大げさに聞こえるかも知れないが、夢中になってページをめくり終えたあとには、心あたたまる話があり、昔を思い出す切ない話があり、光の見えない暗い話がある。

 本を読み、深く感情を揺さぶられることを読了感と呼ぶのならば、フィッツジェラルドの代表作とも言える『グレート・ギャツビー村上春樹訳)』は、誤解を恐れずに言うならば、その対極に位置するものだった、ということになる。それは、この作品のプロットを満足に理解することすらままならなかった、ということだ。

 九章から構成されるこのストーリーの読み始めからその終わりまで、喉元をことばが通らずどこか変な場所で堰き止められているかのようでとても苦しい経験をした。自身がストーリーに何らかの方法でも入り込めず、結局そのプロットすら満足に理解できないことにひどく落ち込んだし、"英語で書かれた20世紀最高の小説で2位"という大衆性を獲得している、という事実にも余計に追い打ちをかけられるようだった。

 広くグレート・ギャツビーが受け入れられることや、村上氏自身が非常に思い入れがあること、グレート・ギャツビーを素晴らしい小説だ、という人の気持ちが理解できないのではなく、単純にプロットがわからなかった、ということであるから、これは国語の読解力の問題なのかもしれないなと思う。100%そうだとすれば、とても悲しい。でも、考えるうちに、どうも読解力以外にも著しく理解を低下させる原因のようなものがあると感じた。

 一つは、舞台設定と登場人物たちが、高級感と華やかな絢爛さが自分とはあまりにもかけ離れ、高温多湿の日本の暮らしとは異なるニューヨーク郊外の生活はやはり馴染みがなかったことだと思う。読むことによって喚起される身体性や同時性が置き去りにされると、われわれの理解は極端に困難になるのかもしれない。こういった小説、特に翻訳文学の流通性については、興味の湧くところでもある。ニューヨークが南青山で、パーティーの会場が西麻布だったら、いきいきと想像力を持って接することができたのかもしれない。

 副次的な原因として、そもそも日本語の文章が翻訳調でとっつきにくく、会話文がどことなくぎこちなかったこと(翻訳文学を読む経験自体があまりなかった)、登場人物の名前に不慣れで把握が難しかったことも考えられた。

 とにもかくにも、読めば読むほど遠くに引き離されていくような読書体験は、久しぶりだった。そういった意味において、教訓があったと思う。

判断を保留することは、無限に引き延ばされた希望を抱くことにほかならない。
「君のその口癖なかなかご大層だな」とトムは鋭い口調で言った。
「何が?」
「その『オールド・スポート』ってやつさ。どこでそんな言葉を覚えたのかね」