2つの破綻

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 ある学問体系を把握し、俯瞰する視座を修めることがその分野における歴史を学ぶことと等価であるならば、教科書は頼り甲斐があり信頼を置くに十分な存在だと思う。

 教科書の薄さは、その学問体系の成熟度を反映していると言って差し支えない。物理学や数学とは対照的に、未だに個々の現象の博物学的記載にとどまる生物学の分野においてはその限りではなく、版を重ねることにページ数と付録が増加する一方である。"THE CELL"は、枕を経て今や鈍器にまで進化した。あと何ページ増やせば生命を理解したことになるのか、とまくし立てることは"THE CELL"が鈍器であるもう一つのゆえんである。

 分子生物学者が扱うことのできる生物種 (model organisms)は、高々数十種である。地球上には300万種を超えた生物種が存在すると言われているが、対象とし得る対象種はその1%にも満たない。今日の分子生物学の知見はその僅かな生物種から明らかにされてきたに過ぎないが、なんとも不思議なことに、観測不可能な生物も地球上に住んでいれば基本は同類のコンポーネントから成ると了解され、今のところ破綻は来していないからそのまま進めばよい、ということになっている。

 現象の分子レベルでの記述から、「生命とはなにか」を演繹的に理解することをいったいどれだけの人間が標榜しているのか定かではないし、このような問いが今日において適切であるのかさえも議論の余地は十分にあるが、どうしたら生命を理解したことになるのか、についてはある程度の正確性を持ったことばで語れるようにはなりたいなと思う。「はかる」ことによって理解しようとしながらも、さまざまな現象を「みつける」ことに終始してしまうのではないか、という疑念や不安もある。

 こんなことを書くつもりはなくて、しっかり教科書の勉強をしないとやがては死ぬ、ということが言いたかった。変な生き物が大量に地球上から発見され、セントラルドグマが覆されて、分子生物学の体系が破綻するよりも、明らかに自身の行き詰まりと破綻のほうが早いことは目に見えている。

 空が明るくなる前に寝るべきなのだと声がした。明日は鉛筆とノートの一日を送りたい。こういった、一見すると関連のありそうな話題を適当な段落で構成すると、散文もどこかへ志向しているかのように見える。