取り急ぎ近況

 お伝えすべき重要な事柄があります。以下をご覧ください。

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ありがとうございますありがとうございます泣

ほんとに単位が足りなくて最も最悪な4年秋学期だった。

最終学歴が高卒を免れた。

ばんざい学士号。次は修士を頑張ります。

 

ちょっと待って、タイトルは保留でいいですか

 少し前、合宿形式のカジュアルな若手の研究者や学生が集まる研究会があって、ドイツから招待講演に来ていた先生と夜通し(本当に明け方までだった)あれこれ話しながら飲む機会があった(おかげで次の朝のセッションは盛大に寝坊した)。みんな酔っ払っていて、何をそんなに話していたのかあまり記憶にないけれど、酔った口にまかせてその先生に「研究がうまく進まないときどうしたらいいですか」と聞いた。そういう夜だった。

 おれは研究が進まないことなんてないよ、結果はいつも出てるんやろ、と言われて一度に酔いが覚めた感覚が忘れられない。期待した結果と違うだけで、それは結果が出てないこととは決定的に違うという意味だと思った。でも確かにそうだ。結果の良し悪しと有無は違う。でも欲張りだから良い方がいいに決まってる。そのほうが何倍もかっこいい。きれいなストーリーで何かの現象を語れるようになりたい。

 先生は続けた。よい結果はなかなかでないし科学は難しい。だからこそ、失敗やトライアンドエラーを毎日続けよ。それともう一つ。失敗も貴重の結果だから、ノートにまとめて、かならず結論を出せ、と言われた。心に留めておこうと思った。今日の結果から言える結論を毎日だす。毎日それを積み重ねる。

 何事も歩き出すまでが難しいのだろう。右足が前に出れば気づくと左足は後を追いかけている。前へと進みだす。

 春の足音を南風に感じた。もう3月なのだ。

手を伸ばした数センチ先

 幾つかの偶然が重なって、勇気づけられる出来事があった。

 いい加減に伸びきった髪を切った後、古からの友人と会った。彼は駒場にいて修士の一年生だと思う。非線形物理とか統計力学が専門だから(たぶん)、研究の話は聞いていてもさっぱり分からない。何か重要な問題があって、それについて一生懸命に取り組んでいるのだということくらいしか分からないけれど、取り組んでいることはお互いに科学なのだから本質的に同じ方向を向いてるのだなあという安心感のようなものを覚える。既往の研究を把握しようと努め、なんとか面白そうな題材を見つけようとする(また大抵はそれが上手くいかないことも含めて)という研究の方法や、学会発表や論文を書くことで研究が評価されるというのは、分野によって文化の違いこそあれどもやっていることはみな同じだ。研究してるとそこそこ打たれ強くなるよな、という会話があったように思う。あまりうまく行ってないようで、それを含めて打つ相槌に、同意以上にこちらも勇気づけられているのだという意思を込めた。

 帰りの電車の中で、STAP cell論文*1の話が飛び込んできた。研究内容に関しては、プレスリリース*2がわかりやすく、詳しい。プレスリリースと、論文の解説記事*3を読んだ。

 five years to develop the method and persuade Sasai and others that it works. “Everyone said it was an artefact — there were some really hard days,” says Obokata.

  Natureの解説記事には、上記の一文が添えられていた。

 分子生物学における100年来の大発見だ、教科書がこれで塗り替わる、という華々しい報道がある背景には、この論文が受理されるまでの5年間、研究結果を信じてもらえず (artefact) 、本当に本当につらかった日々だったのだろうと思うと身震いがした。同時に、そういう状況の中で研究を続けられたこと(何度も折れそうになったのだろうと想像する)に、大きな驚きと尊敬を僕は感じずにはいられなかった。分野の同じ他の教授や、論文の査読者からのコメントは相当に辛辣だったというエピソードがあるし、Natureに最初はリジェクトされている。

 本物はいつも、手を伸ばした数センチ先にあるような気がする。手を伸ばしていると、重心の定まらない安定性を欠いだ姿勢になるから、身体に負荷がかかってつらい。だから、ちょっと上手くいかないとすぐに違うやり方を試したくなるし、それは隣の芝生は青い的な発想で、一度手を引っ込めてしまっているのだと思う。

 STAP cell論文の話を読んでいると、疑うべきは手法でなく、試行の回数すなわち続けることなのだ、という投げかけのように思えて仕方なかった。僕にとって5年間は、あまりに長いように思えて、耐えられる自信などどこにもないけれど、もしそれができるようになったのなら、という淡い希望や、手を伸ばし続けたその姿勢にとてつもなく大きな勇気をもらうことができた。

 どうもこれは、今年一年の標語にしてもいいかもしれない。隣の芝生はいつも青いからこそ、研究の方法には真念を持ちたい。ころころ替えていては、見たい本物はいつまでたっても隠れたままかもしれないからだ。