仕事の終わり

 一日を流れる時間がとてもはやい一日だった。昨晩にボスから送られてきたメールに目を通し、追加の解析を進めるために書き途中のコードをemacsで小気味よく書いていく。指先から入力されるわずか数十バイトの文字列あるいは記号列が、ある文法規則に従って、なにか意味をもった作用を帯び始めることは、それ自体が魅力的だ。プログラムを書くとき、いつだって指は思考を必死で追いかけている。日本語を書くときはどうだろう。思考と指先は同期しているような感覚をもつ。あるときは思考が指先を助け、無意識に指先を動かし始めると思考のスイッチが入る。その違いはなんだろうと思ったが、今はうまく説明ができない。

  年度末、仕事の終わりについて考える。ソフトウェア・エンジニアにとっての仕事の終わりとは。野球選手にとっての仕事の終わりとは。勝敗の決まった瞬間、あるいはペナントレースの終わり、現役の引退なのかもしれない。作家にとっての仕事の終わりとは、一本の作品を脱稿することだろうか。

 研究者にとっての仕事の終わりとはなんだろう。一本の論文を書くことだろうか。仮に問題が完全に解けるのであれば、そこなのだろうか。結局のところ、世の中の研究者が多様な研究を続けられるのは、研究を死ぬまで続けても不明なことは依然として増えるばかり、解かれることを待っている問題は減らないという経験的な事実と合致している。

 常に終わりを考えることが逆説的には研究を前へ進めていくために必要なのだろう。広げた風呂敷をまたもとに包み直すような、そのタイミングを静かに見計らっている。