手を伸ばした数センチ先

 幾つかの偶然が重なって、勇気づけられる出来事があった。

 いい加減に伸びきった髪を切った後、古からの友人と会った。彼は駒場にいて修士の一年生だと思う。非線形物理とか統計力学が専門だから(たぶん)、研究の話は聞いていてもさっぱり分からない。何か重要な問題があって、それについて一生懸命に取り組んでいるのだということくらいしか分からないけれど、取り組んでいることはお互いに科学なのだから本質的に同じ方向を向いてるのだなあという安心感のようなものを覚える。既往の研究を把握しようと努め、なんとか面白そうな題材を見つけようとする(また大抵はそれが上手くいかないことも含めて)という研究の方法や、学会発表や論文を書くことで研究が評価されるというのは、分野によって文化の違いこそあれどもやっていることはみな同じだ。研究してるとそこそこ打たれ強くなるよな、という会話があったように思う。あまりうまく行ってないようで、それを含めて打つ相槌に、同意以上にこちらも勇気づけられているのだという意思を込めた。

 帰りの電車の中で、STAP cell論文*1の話が飛び込んできた。研究内容に関しては、プレスリリース*2がわかりやすく、詳しい。プレスリリースと、論文の解説記事*3を読んだ。

 five years to develop the method and persuade Sasai and others that it works. “Everyone said it was an artefact — there were some really hard days,” says Obokata.

  Natureの解説記事には、上記の一文が添えられていた。

 分子生物学における100年来の大発見だ、教科書がこれで塗り替わる、という華々しい報道がある背景には、この論文が受理されるまでの5年間、研究結果を信じてもらえず (artefact) 、本当に本当につらかった日々だったのだろうと思うと身震いがした。同時に、そういう状況の中で研究を続けられたこと(何度も折れそうになったのだろうと想像する)に、大きな驚きと尊敬を僕は感じずにはいられなかった。分野の同じ他の教授や、論文の査読者からのコメントは相当に辛辣だったというエピソードがあるし、Natureに最初はリジェクトされている。

 本物はいつも、手を伸ばした数センチ先にあるような気がする。手を伸ばしていると、重心の定まらない安定性を欠いだ姿勢になるから、身体に負荷がかかってつらい。だから、ちょっと上手くいかないとすぐに違うやり方を試したくなるし、それは隣の芝生は青い的な発想で、一度手を引っ込めてしまっているのだと思う。

 STAP cell論文の話を読んでいると、疑うべきは手法でなく、試行の回数すなわち続けることなのだ、という投げかけのように思えて仕方なかった。僕にとって5年間は、あまりに長いように思えて、耐えられる自信などどこにもないけれど、もしそれができるようになったのなら、という淡い希望や、手を伸ばし続けたその姿勢にとてつもなく大きな勇気をもらうことができた。

 どうもこれは、今年一年の標語にしてもいいかもしれない。隣の芝生はいつも青いからこそ、研究の方法には真念を持ちたい。ころころ替えていては、見たい本物はいつまでたっても隠れたままかもしれないからだ。