老害案件

 文学好きな友だち同士であれば新潮や文學界の連載の話に自然と傾いていくように、研究室の飲み会とかそういうのになれば、研究の話になるとのはごく自然な正しいコミュニケーションの一つであるように思う。そういう一連の会話に、三ヶ月に一度くらいもやもやする、いやもやもやを通り越してひどい時はある種の怒りを覚えることがある。今晩は外気温は0度近くなのに家までの道を吹き抜ける風が全く気にもならなく暑かった。寒いはずなのに。

 人の研究について、方法が古い、やり方や進め方が非効率、あんなやり方では何もわからん、あと自分が面白くないからその研究はつまらない、みたいな感じのやつ。こういう言説、あまりに人を小馬鹿にしすぎているし、これまでの人類に蓄積された知識を軽視しすぎているという2点において、あまりに悲惨で、聞いてて体調崩しそうになる。明らかな老害案件だ。

 やり方が古いから、効率が悪いから、とかそういう理由で批判するのが一番最悪で、新しい技術を使っていて研究してるつもりになってるのは悲惨だと思う。もう少しいい方法があるのならそれを話すとか、新しい論文を教えてあげるとか、自分にも出来そうなら一緒にやるとか、そういう側の立場であり続けたいなと思いますね。

 ちらっとそういう話がどこからか聞こえてきて、意識的に聞こえないようにしてたのに、帰り道に突然思い出してしまって、どうしようもなくて書いてしまいました....すいません.......。もうちょっと時間がある時期にまとめたいですね。

 とにかくこれは研究に限った話ではないということです。一人の人間が一度しかない人生のなかで、大きなエフォートを割いて取り組んでいる事柄について、理解が及ばないまま頭ごなしに批評する、退けるのはほんとによくない。

 教養とは、自身の知らない学問分野や異質な人、事柄に対する寛容と尊重だ。たぶんこの定義は間違っていなくて(そう信じている)、身の回りの多様な言説にできるだけ寛容でいたいし、尊重できるような人になりたいですね。

 あ、いつもどおり、手がかじかんで寒くなってきた。よかった。。