就職活動

 働くということについてまだ明確な輪郭を与えることが出来ない。これまでの職業体験は乏しい。時給がいいからという理由から塾の講師をやったり、社会経験だと思って日雇いやティッシュ配り、果ては結婚式の代理出席までこれまでに雑多なバイトを経験した。しかしながら、両親からの仕送りもあり、また物欲も恐らく平均よりも低かったことから生活への切迫感を感じたことはあまりなく、どれも長続きはしなかった。接客を通した偶然の出会いもなければ、身になった経験を得た訳でもないと思っている。

 今からちょうど一年前の話をしたい。おれは田舎の高校から大きな私立大学に進学し、学部を卒業した。確かとても寒い冬で、厚手のコートをよく着ていた。4年生の夏ごろには、サークルの知り合いの多くがいわゆる大企業に簡単そうに就職を決めた。就職難と言われるこの時代に、誰もが知る大企業から内定を貰うことは容易くない。これは一般論だ。しかし、彼らの多くは洗練されていた。泥臭く勝ち取ることよりも、最小限のエフォートで利益を最大化させる秘訣を会得しているようだった。人はそれを要領がいい、何でもそつなくこなすとポジティブな意味合いで形容し、おれには内定を貰うことが本当に簡単そうに見えた。

 必要単位が揃い終わる4年生の学期は、優勝の決まった消化試合のような趣がある。その冬、仲が良かった数人と、二泊三日で沖縄へ卒業旅行に行くことになった。ホテルの名前は忘れてしまったが、窓からは白い砂浜と透き通った海から珊瑚礁がどこまでも見えた。一年前のことだ。美化された思い出はひたすらに懐かしい。

 幸いなことに、修士課程の間に1つの研究がまとまり(正確には学部のことから手を付けていた)、論文としてまとめようというところまで来ている。論文を書いている間はなかなか研究を前進することができなくてもどかしさもあるが、妙な興奮を覚えている。同時に、『判断を保留することは、無限に引き延ばされた希望を抱くことにほかならない』などと悠長なことを言ってられないところまで来ている。ひとつの判断を迫られている。おれは人生におけるひとつの選択を迫られていて、それは明日からでも就職活動を始めるのか否かということについてである。

 僕は慌てて支度をして飛び出すように家を出た。