生きることは選択の連続なのですが

 このことはかなり真剣に考えていて、何を優先して人生を選択するかという問題である。選択は人生を様々なレベルで変えていくし、幸せも辛さも生む。できることなら、幸せにいきたいなと日頃から思っている。幸せについて考えると幸せを引き寄せることができそうな気もする(スピリチュアル)。

 人生には大小さまざまな選択が恐らくあって、進学や就職や結婚や転職を考えたときに、高給とか家が近いとか貴方の愛が全てとか相続とか貯蓄とか、無数の基準とそのプライオリティがある。結構これには無自覚で、気づいてたら無意識にそう選択していたのだと知ることも多い。

 例えば、あの人と結婚してあの家に嫁ぐならあそこに住まなければならない訳だし、あそこに就職したらあそこらへんに住まなければならない、というように住む場所は自然と規定されてくる場合が多い。沖縄に家を構えて暮らしたいのにヒカリエに毎日出勤するのは無理がある。ヒカリエの会社に勤めるために都内に住むか、沖縄で漁師を生業とするかとかを決めないといけない。個人的にはすごい面白い企業が岐阜県にあって、そこそこつまらない会社が都内にあればほぼ迷わずつまらない方に就職することを決めると思う。でもこれは岐阜県が悪いとか都内が優れているとかそういうことではない。ある人にとっては面白い会社で働くことが大切だし、別の人は面白い会社もいいけど岐阜県に住むのは抵抗があったりする。その差を生むのは選択の優先度である。

 思い返すと、大学受験はまさにそうだった。地元とか地方の大学は視野にすら入っていなかった気がする。ここから抜け出すのだという意識はなかったけれど、東京近辺の大学に行きたいなと漠然と考えていた。「上京」ということばがあるくらいだから、古くから多くの人が住みたい場所を優先させて就職や進学してきた歴史的な経緯もありそうである。特に戦後日本で、家業を継ぐことから、個人が人生を切り開き選択していくのだという生き方が一般化してきた流れを自身の思考も大局的にみれば位置付けることができる。こういうことを振り返ると、あぁ日本人として育ってしまったのだと強く感じざるを得ない。

 この先にある選択も、住みたい場所や好きな土地を優先させて、多くのことを判断してしまう気がしている。それが原因で躓いてしまったら考え直したい。こういうことは、本当に個人の勝手だけれど、自分が幸せになること、自分を幸せにするものについては自覚的でありたいと思う。生きることは多くの兼ね合いと譲歩の狭間にあるのだからこそ、自身を尊重する生き方はしあわせを生むように思う。