ひとつの「そうだったこと」と幾つもの「そうであったかもしれないこと」

クォンタム・ファミリーズ

クォンタム・ファミリーズ

 あずまん(決してこう呼ぶに相応しい立場なのかは些か疑問である故に東浩紀と本来であれば書くべきであろうが、日々Twitterで娘の汐ちゃんにでれたり、お決まりのブロック芸をみていると親近感に由来する呼ばざるをえない感じが強くある)の『クォンタム・ファミリーズ』を読んだ。直訳すれば量子家族であろうか。訳したところで、われわれにとってはなんの理解の助けにもならない。SF小説である。記憶が正しければ、SF小説を読んだことは初めてだったが、想像以上に難しかった。正直に言ってしまえば、物語のプロットを殆ど理解することができなかったので、どんな話でしたか、と聞かれてしまえば閉口するより他無い。量子力学(quantum mechanics)に素養のある人だと、文中で頻繁に登場するテクニカルタームを手がかりに理解を深めることができたのかもしれないと少しばかり羨んだ。

 文中に二度、以下のような叙述がある。

ーーーひとの人生は、過去になしとげたこと、現在なしとげていること、未来でなしとげるかもしれないことだけでなく、過去には決してなしとげたことがなかったが、しかしなしとげられる«かもしれなかった»ことにも支えられている。そして生きるとは、なしとげるかもしれないことのごく一部だけを現実になしとげたことに変え、残りのすべてを、つぎからつぎへと容赦なく、仮定法過去のなしとげられる«かもしれなかった»ことのなかに押し込めていく作業だ。

  地元にある公立の中学校に進学しなかった僕は、そうではなかったら今なにを考えて、どんな友だちと付き合っているのだろうと想像し、怖くなる経験が度々あった。恐らく、地元から出る時期は幾年か遅れ、或いはいまも地元に住んでいるかもしれず、大学に通っていないんじゃないかな、とも思う。東京や神奈川はどこか東の遠い場所で在り続けているかもしれず、暴力的な満員電車やNHKが1chであることも知らぬままかもしれない。全く想像もつかないような人生であると思う。

 こういった人生におけるさまざまな選択は、選択の度に自身の情況を遷移させ、消して逆には回らぬ頑丈な歯車が目盛りをひとつずつ進行させる。もし、公立の中学に進学していたならば、恐らく今の生活はなかったであろうし、その後に出会うことのできた多くの友人や知人とも出会えなかったというもう一つの人生、並列世界の立ち上がりをみることができる。われわれは、多くの選択によって、決してなしとげられることのなかった人生と並行的に生きている、と言えるのかもしれない。

 本作品を根底で規定するモチーフは、量子力学的文脈における多世界解釈的(平行世界)な概念を援用しつつ、われわれの人生において「そうであったかもしれないがそうならなかった可能性の人生」が数多くそして並列的に存在するのだ、ということなのかもしれない。その接続性に気づいたとき身震いし、大きな納得とともに感服してしまった。読んでよかったと思った本の一冊となった。