ヒヒョウカについて 

 われわれが経験する事柄そのひとつひとつは全て説明可能である、という主張がある一方で、われわれは経験した多くの事柄について適切な説明を付与することができないでいる。

 日常生活とは、日常生活について思考を巡らせるようなメタ的な意味合いの範疇にはなく、大根おろしを焼き魚のためにつくる過程で和食とはなにか、といった類の問いが前景化することは恐らく起こり得ないであろう。大根はどこまでも大根であるし、美味しく焼くことがどこまでも重要である。

 そういった日常生活の営みが続くなかで、自身の経験や情況へ言及することばを持ち得ぬことが行き場のないフラストレーションとして溜まっていくことがある。あざやかさを持った巧妙な言説に安易に吸い寄せられそうになる自分と、自己言及の末に自身で自身を語ることばは獲得すべきだという主張がせめぎあう分水嶺に立たされていることを改めて知った。