うまく聞けない

 「解らないこと」に直面したときの自身の振る舞いについては迷うことが多く、後になってボディブローのようにじわりと後悔の念が押し寄せることは珍しくない。ときどき、息苦しくなる。

 何かと人に頼ることが苦手である。わかりません。そうやって一旦「解らないこと」として放つことで、助け舟や参考になる良き助言を適量もらうことのできる人間を見ると、どこか羨ましさを感じることがある。翻って、いざ自分のこととなれば、大切な告白が言いがたいように口ごもってしまう。

 素直に解らないことはわかりません、どうしたらよいですかと判断を仰ぎ委ねられるようになりたいと思うことは多い一方、解けそうな見込みが僅かでもあるものは自立的になるべきだ、という狭間で揺れる。結局、大いに時間をかけて一人で片付けることや、無理だと悟った暁には、先送りにして前に進んでみることは常套手段である。ここがわかりません。そう表明することは、自身の依拠する根拠や立場をより脆いものに変容させてしまう可能性がある、という怖さに起因しているように思える。

 試行錯誤を繰り返した努力が直接的に報われることはあまり多くないと思う。もちろんそうあって欲しいと常に願っているけれど、今のところはハズレを引き続けている。一週間或いはひと月熱心に取り組んだことが全くの見当違いであったことに気づくことは珍しくない。そういったときは決まって、わかりません、どうすればいいですか、と聞くべきであったのだ、と後悔する。もっと早く気づくことができたかもしれないのだ。

「ただ本を読んだだけだよ。研究じゃないでしょ。」

「何をすれば良いですか?」

「何をすれば良いかなぁ」

中村さんは悪戯をした子供のような目つきで僕をじっと見据えた。挑戦されている、と感じる視線だった。しかたなく、僕は必死に考えた。

                         『喜嶋先生の静かな世界』森博嗣 

 依然として、二点間を結ぶ補助線は引けぬままである。