集団へのコミットメント

f:id:soh3914:20121027133823j:plain

 校歌や応援歌や国歌を聴いたり歌うと、否応なしに自身の持つ組織や集団への帰属意識やナショナリズムについて、必ず考えこむ。オリンピックやワールドカップを見れば明らかなように、スポーツとナショナリズムの親和性は異常なまでに高く、特定の集団を凝集させ、帰属意識の横糸を強力に張る装置として未だに健在なのだ、という事実に驚いた。

 昔から、といってもいつ頃なのかはわからないが、帰属意識を過度(少なくとも自分にとっては)に表明することを苦手としてきた。そのせいなのか「誇り」ということばに対しても、妙な選民意識や高慢さを感じてしまうことも少なくなかった。大学を卒業したら、一切をきれいさっぱり忘れてしまいそうだ。それくらいに帰属意識が希薄で、組織へのこだわりや忠誠心がない気がしている。

 積極的なかたちで、組織や集団へのコミットメントに抵抗を持つ感覚について、これは自分の欠点でもあるなとも思っている。高校生なら部活や委員会、大学ならサークルや学生団体や研究室、その輪の外側でアウトサイダーとして振舞いたい、或いはそうとでしか関わることができないなと思う。こういった帰属先へのコミットメントの欠落感は、周りの人間には向上心の無さとして認識されていることも大いにあるだろうし、またそれによって多くの迷惑や不快感を与えてしまったことを申し訳なく思っている。責められるべき点であると思う。

 チアリーダーの子や応援団の人たちが試合の動向も気にせず踊り、感度の低いマイクで声帯が破壊されそうな声を出して応援する動機やその心に、個人的には強い関心を持っている。彼らはなぜそこまで、盲目的(少なくとも僕にはそう見える)に、自身の大学とその歴史へ帰属と矜持を明言できるのだろうか?何が彼らを駆り立てるのだろうか?

 組織に身を委ねること、或いはある一方向を志向し先鋭化した集団への危うさや脆さを感じる。帰属意識を表明し、それを確かなものにすることは危険ではないか?と誰かの忠告が聞こえる。個人はもっと自由であるべきではないのか?という声が聞こえる。

 同時に、われわれ一人ひとりは、様々な規模の階層における集団に帰属しなければ生きられないのだ(共同幻想といってよいのだろうか)、というジレンマが立ち上がる。その問題を切り分ける補助線を上手く引けぬまま筆を置く。