1Q84を読んで思ったことがあった

 今日、村上春樹の長編小説『1Q84』を読みきった。とても長い小説(400ページ以上で3巻セット)だった。たぶん、10月のはじめのころに読み始めて、今日は21日であるから、それでもなお一日60ページ近くを読んだことになる。通学に使っている横浜線は、座席がふかふかしてて陽も当たるので読書にとても向いていた。

 3巻をちゃんと読みきったのは今回が初めてであったが、高校生だったころ、発売当初に初版を手に入れていた。夢中になってBook2まで読み進めたとき、まだBook3は発売前だったと思う。期間が空いてしまって、1Q84への向けられた熱量も急速に失われてしまった。新刊が届いた頃には、綺麗に帯の付いたまま本棚に飾られる運びとなった。

 先日、ふと、本棚を片付けていたら読んでいないことに気づいたが、Book3から再試合するにはいささかブランクもあったし、何しろ物語のディティールは完全に忘れてしまっていた。今日、村上春樹の長編小説『1Q84』を読みきった。

 この流れからすると、1Q84の読書感想文をつらつらと書くことになるわけですが、いかんせん長い小説だったし、超自然的でよく練られた比喩が物語全体を貫いており、それを解いていくような力量を持ち合わせていないことには、読み始めたころから気づいていた。

 それでもなお、村上春樹作品(小説とエッセイ、翻訳)をまがいなりにも読んできた身としては、1Q84は書かれるべくして書かれた、或いは彼によって書かれるべき物語だった、と強く思ったし、それは'95年にオウムによって引き起こされた地下鉄サリン事件阪神淡路大震災の以後、彼が小説を通して強く志向した物語だったといってもよいのではないかと思う。

 短編小説では『神の子どもたちはみな踊る』。ノンフィクション作品では、オウムの関係者およびサリン事件の被害者にインタビューを『アンダーグラウンド』にまとめる。また、河合隼雄との対談が加わった『約束された場所で―underground 2』、『村上春樹河合隼雄に会いにいく』など幾つか作品が存在している。そこには、彼の小説家としての使命感やコミットメントをはっきりと感じることができる。

 言い換えれば、制度的になってしまった、手垢にまみれた言葉だからだ。このような制度の枠内にある言葉を使って、制度の枠内にある状況や、固定された情緒を揺さぶり崩していくことは不可能とまではいわずとも、相当な困難を伴う作業であるように私は思えるのだ。 とすれば、私たちが今必要としているのは、おそらく新しい方向からやってきた言葉であり、それらの言葉で語られる全く新しい物語(物語を浄化するための新しい別の物語)なのだーーということになるかもしれない。(『アンダーグラウンド』p.691. 1997.)

 1Q84の中には、「さきがけ」と「あけぼの」といった2つの新興宗教団体が登場する。この「さきがけ」はモデルということばの意味以上に、かつてのオウム真理教の成立過程や精神性とディティールが色濃く反映されている。山梨県に本部があるという地域性、学生運動から流れ込んだ高学歴者が多い時代性、 またリーダーが存在し、現実味がどこか欠落し、オルタナティブを標榜する教義。大量の不動産売買や規制緩和による宗教法人化による内部の隠蔽化。こういった細部のリアリティは、オウムが存在していたという事実(実際を知らないので見聞きしたことではあるが)と、1Q84で展開される物語の相同性に身震いさせられた。

 物語中、青豆という女性は、強姦犯(こう言ってよいのか疑問であるが便宜的に使う)として、「さきがけ」のリーダーを殺害する。青豆は、レイプの被害者である少女たちを保護するために、「あちら側」に送らなければならない、という強い使命感と正義感を持つ。あなたは正しいことをしたのです、と青豆は肯定される。

 正義や善悪といった二元論的な立場の呪縛から、われわれはまだ自由ではないのだ、という現実を明白な事実として突きつけられる。

 こちら側の論理であちら側を推し量ろうとする。その極限において、相対性は絶対性で限りなく近似されるのだろう。善悪の彼岸に立つことはとても難しく、リーダーを殺害した激しい雷雨の夜、僕は、青豆に同情や肯定感を抱いていた。われわれの気持ちが揺れ動くのと同じように、壁は思っていたよりも薄く、脆い。