書くことで自由になれる

 昨日、なんでブログを書くんだろうみたいなはなしをしていたとき、「書いたら終わったことにできる感じがする」って言われた。

 小説も論文もプログラムもキャッチコピーも何もかも、文字として表出されることで、書き手というコンテキストから自由になることができる。次の瞬間、自分ではなくなっている。この感覚が得られることは、書くことの魅力のうちの一つである。昨日の自分の書いた文章を今日の自分で褒めることも、けなすこともできる。

 自分の気持ちや考えていることを、可読なかたちで流通させてしまうことは、どこか、抱えていたものをそっと自分の傍に退けられる気がする。インターネットは、流通させるための手軽で巨大なインフラストラクチャである。

 書かれたものは、自分というコンテキストから開放された「他人」であるから、言及される事柄との距離は自分で決めることができる。嫌だったらもっと遠くへ放ればいいし、気になればもっと近くへ手繰り寄せればいい。早く自由になりたくて、とてもプライベートなことをあえて流通させてしまう、ことも原理的には可能だ。それには、とっても高度なパッケージングが求められるけれど。ともかく、書くことが自己療養の手段たり得る根拠はここにあるのだろう。これには同意せざるを得ない。

 人に自分の話をすることが苦手だ。口で「言ったこと」は、容易に「他人」にならないからだと思う。下手したら、なに人ごとみたいにゆってるの自分のことでしょうって怒られそうな気がする。だから苦手だ。あんまり話せない。突き放していったことばでさえも、執拗に自分にまとわりつく。言ったことは、他人にならないゆえの困難さがある。

 よく話す子もいる。特に女の子。聞いてもないようなプライベートを聞かされることも、聞き入ってしまうこともある。男はすぐに勘違いするので、これは自分だけにはなしてくれてるんだろうな、うれしいって好意を抱いたりする。いや、そこから始まる恋もあるかもしれませんね。ともかく、あの子たちにとって話すことは、僕にとっての書くことなんだろうな、と了解するようにしている。

 たぶん、僕は、このさきもあまり話さず、書きたいときに書きたいように書くことで、自由になろうとするのだと思う。嫌なことは、書いて忘れたい派。まだしばらくは、書くことをやめられない。