深い場所へ降りてゆくために

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 『書くためには読まなければならない』は、彼が一貫して主張し続けた数少ないメッセージだった。自身の経験から語られることばの多くは、確信があり明確な意図があり、優しい語り口が一層それを引き立てているように感じた。このことばの意味を毎週噛み締めながら、優れた小説家やエッセイストとその作品に出会うことができたことに、とても感謝している。今日は最後の授業だった。

  途中、彼が村上春樹は皆さん嫌いですか、と問うた場面は印象的だった。ぽつりぽつりと手が上がった。僕(ワタナベノボルかな)の行動が理解できない、文体を貫くリズムがあわなくて最後まで読めなかった、などよく聞く話の途中に、場面や登場人物の心理描写はもっと明確であるべきだ、という主張があった。その主張を聞いたとき、手を上げた人たちと僕との間に、すーっと補助線が引かれてゆく様を覚えた。とても象徴的なできごとだった。僕がどうしてこれほどまでに村上春樹を読まなければならなかったのか、その所以がみえた気がしたからだった。

 自身の感じていることや置かれている情況へ、僕は明確なことばで断言することをとても苦手としてきた。苦手故に、相手にきちんと気持ちを届ける伝達能力に欠けていると思っているし、真剣に伝えようという気持ちがとても弱い。そのせいで、多くの人に迷惑をかけたと思っているし、おそらくたくさんの機会を逃してきたのだと思う。

 自分を明確なことばで定義していける人には感心してしまう。私はこういう人間です、という一貫した主張は、その人を見ればすぐにわかる。一方で、そういうひとと接すると、危うさのようなものも同時に感じることがある。もっと自身の存在は流動的で、捉えどころのないものじゃないかなって聞いてみたくなる。

 自己は、他者との関係性や文脈から立ち上がると強く信じている。そういった意味合いにおいて、状況を決定するのは関係の絶対性だけである、という吉本さんの言説は、僕に大きな影響を与えることになった。

 僕は、村上春樹の小説やエッセイから滲み出る、自己の絶え間ない変容を許容する構造に助けられていたのだと今になって思う。いつも曖昧で、不明瞭な気持ちや感覚を、時にはキズキが、ミドリが、由紀子が代弁してくれるような気がしていた。

  僕はあのとき、恐ろしい程明瞭に、手を上げたひとたちと相対化されてゆく様を感じた。そして今、以前より自己言及を通して少しだけ深い場所まで、降りていける感覚をつかめた気がしている。書くためには読まなければならない、という彼の主張は、より自分の深い場所へ降りてゆくために必要なはしごだったのかもしれない。