難しい問題があること、またそれを解くことについて。

 蝉が鳴き始めた。少し歩くだけで汗が止まらない。早く冬になってほしいと夏の間はずっと思っている。冷房の効きすぎた部屋が恋しい。

 ここのところ、ここと言っても数ヶ月であるが、文章をまともに書かなかったので、いったい何を考えて毎日過ごしていたのか殆ど思い出せないでいる。Twitterはろくにあてにならないし、Instagramは美味かったものしか思い出させてくれない(これはとても重要だ)。4sqもHachio-ji Sta.にしかCheck-Inしないので、少しの力にもならなかった。せっかく全Check-InをGoogle calendarに書き込んでいるのに。そう思ってはてブをちらちら見返していたが、おっぱいを粘弾性体として取り扱うべきという主張や中央快速線vs京王線 最高運転速度比較とかそういうものばかりだった。そんなことを久々の休日にだらだらとやっていたら、あ、そうだ、と一つのことを思い出した。

 『毎日本腰を入れる』。ここ数ヶ月で随分と反芻したことばのうちの一つだ。その対極として、授業の課題やテストはレッドブルと一晩の徹夜でクリアできる、という主張は、特に、出席よりも期末テストの成績が重視な授業において、多くの大学生の実地的経験から今もなお根強く支持されている。実際のところ、そういったモチベーションでも問題なく単位はかき集められるし (成績評価はここでは問題ではない)、それによって学年はインクリメントされることが殆どである (勿論、例外も一定数存在する)。当たり前であるが、多くの学生は入学後、必ず卒業しなければならない。よく知らないが、学部は8年以上所属することはできず、退学することになるらしい。

 誤解を恐れず断言するが、入学した以上、大学生が大学に通う目的は卒業するために一定数の単位を習得するためだ。その観点からすれば、レッドブルと一晩の徹夜を学期末に何度か繰り返すことは、単位取得のために最適化された極めて合理的な方法であることがよく分かる。個人的な観測範囲では、必修の多い学科のよく訓練された学生ほどその傾向が強いように思う。試験、大変だよねって大変そうな友だちを横目で見て思っている。これらの主張は、大学における講義の価値や大学教育の是非として、ネガティブな意味合いの強い文脈で語られることが多いが、そういう議論は誰かに任せておこうと思う。

 僕を含めた多くの大学生のメンタリティに反して、レッドブルと一晩の徹夜では、どうあがいても解けない「難しい問題」がある。解くためには圧倒的に時間と能力が足りない。能力、というのは問題の枠組みを定義するセンスや、そのために必要な勉強、自分よりも長けている人に教えを請うことなどが含まれる。難しい問題にぶつかった時、さまざまな適応の方法がある。小手先で上手く加工しようと試みて、適当な妥協点を見つけてそこに落ち着こうとする。或いは、全く感心はしないが、仮病を使って回避するなど、上手くすり抜ける方法は正面から問題に取り組むことよりも、多くの選択肢を簡単に与えてくれる。量子テレポーテーションを実現し、どこでもドアをつくる。生命現象を数理モデルで記述する。ニューロンの発火現象から意識の生成を明らかにする。こういった問題は、偉大な先人たちを含め人類が一生を費やしても解けない故に難しい問題だと言える。

 難しい問題が横たわっていることには、僕は比較的早く気づくことができた人間だったと思う。世の中には、まだ解かれていない謎がたくさんある。幼い頃から、宇宙の広さがまだ分からないとか、進化がどうやって起こるのとか、底抜けした話に興味を持って、いつか解き明かしたいと思っていた。

 研究室に入って、1年半が経つ。高出力な実験機器から得られる巨大のデータを扱い、生命の謎を明らかにしようとしている。すぐに出来ると思った手法の実装に手こずったり、期待する結果が出ない故に違う方法を試す、といった無数のトライアンドエラーがある。そういう経験を重ねることで、僕はようやくレッドブルと一晩の徹夜では、これを幾度繰り返しても目の前の問題は解けないことを悟った。

 難しい問題の所存を明らかにすることと、そういった問題に取り組むために必要とされるメンタリティには大きな乖離がある。今は、『毎日本腰を入れる』ことで、漠然と感じていた壁を超えられるような気がしている。ローマは一日にして成らず、だ。