「書くこと」について苦手なこと。

 僕にとって、伝えたいことを幾度も書き直し、丁寧にことばを重ねてゆける「書く」行為は、相手と向き合い話すことよりも気負いもなく、いくらか自由でいられるような気がしていた。誰かに悩みを打ち明けることで気持ちが楽になれる人がいるように、書くことが自らの気持ちを整理し落ち着け、和らげるといったある種の自己療養的な意味を持っているように思う。あるとき、ふと書き溜めてきたブログやノートにまとめられた文章を読み返していたとき、これまで僕は自身の私的で個別的なさまざまな感情を表現することを苦手とし、また避けてきたことを思い知った。それは、自分の書いた文章、或いは僕自身が抱えているある種の欠陥や苦手を突き付けられる様な経験だった。  生きていると様々な情況に埋め込まれるかたちで、多くの経験を重ねることになる。心揺さぶられる小説に出会い、自然と涙の溢れる感動的な映画がある。誰かのことを好きになれば切なくなるし、自分の不甲斐なさや実力不足に落ち込むこともある。我々の生きる毎日には実に多くの感情が沸き起こり、またその遷移がある。僕は、そういった等身大の自分が日々感じている、生々しい感情や極めて具体的な情況を人に話すことは勿論のこと、書くことがとても苦手だ。自らについて積極的に語ることができず、抽象度を上げ、ある程度の匿名性が確保できない限り、例え近しい仲の人間であっても、自身について上手く口を開くことができない。恐らくそういう理由から、人と話しているとき、本当に伝えたいことが言い出せず後悔したことが幾度とあった。それでも自分の内情をさらけ出すことは本当に恥ずかしい。手の内を全て知られてしまうような気がして、身を守るようにして書かなかったのだと思う。  僕にとっての「書く力」とは、ありのままに自分の内情を語ることばを持つことである。自分の感情をオブラートに包み込んでしまうのではなく、生き生きとしたことばで情況を取り出し、語れるようになりたいと強く思う。抽象性を帯びた匿名性の色濃い文章よりも、その時の感情を肌で感じ取れるような、等身大の自分に寄り添った文章を書けるようになりたい。もしそれが出来たなら、僕は書くことについて、少しだけ苦手ではなくなるのかもしれない。  こんな文章をつらつら書いて提出したら、気持ちが届いたらしく松家さんの授業を履修できることになってた。