死にたさと匿名性
年末になった。twilogを掘って過去一年前や二年前のツイートを掘り起こして読んだら死にたくなった。こういう感覚は自分一人ではなかったみたいだった。過去のツイートを見れば懐かしいしそれだけで思い出に浸れるけれど、それ以上の代償がtwilogにはあって、破壊力も大きい。
こんなやり取りがあった。
そういうことだった。ツイートは本当にその時の感覚でしてるから後で読み返すと余りにも具体的過ぎて、直視できないことが多い。過去の自分は恥ずかしいものだ。それを隠すように、抽象度をあげて、一般的なことばで匿名性を持ってして語れば死にたい気持ちは喚起されないのだと思う。だったら書くなよというのはなしね。あくまでも自分の感じたことや思ったことを言語化したいという欲求とどう折り合いをつけて、気持ちを解消していくか、という話です。
来年や再来年、未来の自分の気持ちを考えてことばを選ぶことは何だか人のことを考えているみたいになるね。