仕事の終わり

 一日を流れる時間がとてもはやい一日だった。昨晩にボスから送られてきたメールに目を通し、追加の解析を進めるために書き途中のコードをemacsで小気味よく書いていく。指先から入力されるわずか数十バイトの文字列あるいは記号列が、ある文法規則に従って、なにか意味をもった作用を帯び始めることは、それ自体が魅力的だ。プログラムを書くとき、いつだって指は思考を必死で追いかけている。日本語を書くときはどうだろう。思考と指先は同期しているような感覚をもつ。あるときは思考が指先を助け、無意識に指先を動かし始めると思考のスイッチが入る。その違いはなんだろうと思ったが、今はうまく説明ができない。

  年度末、仕事の終わりについて考える。ソフトウェア・エンジニアにとっての仕事の終わりとは。野球選手にとっての仕事の終わりとは。勝敗の決まった瞬間、あるいはペナントレースの終わり、現役の引退なのかもしれない。作家にとっての仕事の終わりとは、一本の作品を脱稿することだろうか。

 研究者にとっての仕事の終わりとはなんだろう。一本の論文を書くことだろうか。仮に問題が完全に解けるのであれば、そこなのだろうか。結局のところ、世の中の研究者が多様な研究を続けられるのは、研究を死ぬまで続けても不明なことは依然として増えるばかり、解かれることを待っている問題は減らないという経験的な事実と合致している。

 常に終わりを考えることが逆説的には研究を前へ進めていくために必要なのだろう。広げた風呂敷をまたもとに包み直すような、そのタイミングを静かに見計らっている。

ないものを追いかけて

 『風の歌を聴け』を高校生の頃に繰り返し読んでいたことを思い出す。ストーリーもあってないようなある夏の話である。本を手に取り、感銘を受けた全国の若き読者たちは、読み終えると決まって図書館へ行き、あのエンパイア・ステートビルから飛び降りた、ヘミングウェイと同時代を生きた、ディレク・ハートフィールド『気分が悪くて何が悪い』(原題: What is so bad about feeling good?)はどの書架にありますか?と聞いたものだ。筆者はあとがきで、ハートフィールドの墓を訪れた時の体験記を寄せている。

 「申し訳ありませんが、お探しの作家はおりません。」彼らはそのとき、ハートフィールドが非実在の作家であったことを知るのだ。当時、全国の図書館でこのような現象が知られており、当時のエピソードは、心温まる後日談として今もなお語り継がれている。

 今年の春先、大学の3kmほど近くへ引っ越したとき、これまで使っていたビクターのスピーカーのACアダプタが故障してしまった。規格が若干に珍しく、すぐに代替品がなくて電源を入れることができなかったが、右側だけはイヤホンジャックに挿せばそれなりの音量がでた。めんどくささと音を出すという最低限の要件をクリアしてしまったために、ずっと片方のスピーカーをAppleTVに繋いでいた。

 昨日、テレビの台が届いたので(テレビは見れないので、ディスプレイの台と言ったほうが正確かもしれない)、重い腰を上げて秋葉原の電化製品のパーツを売っている店へ出向き、同じ規格のACアダプタを探す旅に出ていた。およそ2年ぶりくらいであろうか。特に感慨はないが、電子機器とその関連商品のバルク品や中古品ばかりを扱う店がずらりと並ぶエリアは、よく知らないが戦後からの古きよき秋葉原という感じがした。それから、秋葉原にはケバブ屋がたくさんあって、街中からケバブの匂いがしたが、あれは一体なんだったのだろう。ケバブを食べながら中央通りを歩く若い子たちを頻繁に見かけた。

 何軒か回っても、同じ規格の電源は見当たらず苦戦していた。「この規格はうちでは見たことない、見つからない」。それでも仕方なく、類したものを購入した。スピーカーにつなぎ変えたらお見事、かつてのリアルな音響が戻ってきた。

 パソコン用の大きなディスプレイには、スピーカーとAppleTVが接続されていて、手元のiPhoneMacなどから、AppleTVを操作したり、手元から動画や音声を飛ばすことができる。Huluの映画もそこそこ充実してきたので、平均すると週に2、3本は映画や番組を見ていると思う。テレビと違ってCMがないのもよい。ところが、AppleTVは音量を調整することができない。思い切ったデザインだとは思うけれど、音量だけ物理的な操作が求められるからこそ、残念に思う。それから、うちのスピーカーは接続が極めて微妙なバランスで保持されているから、つまみを回すと接触が悪化して片方からの音が消えてしまうある角度がある。

 師走が折り返している。バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2で、タイムトラベルした年は2015年だったことを昨晩、見返して知った。我々があの世界をリアルに生きることになると考えるとなんだか感慨深い。25年先のわれわれの生活はより高度に洗練されていく一方で、結局は、同じような事柄で悩み、あれこれ考えているのだろう。科学技術の進捗の予測は困難だが、25年後の人間は合理的に思考し、高度な意思決定が可能になるとは思えない。多分、本当に変わらないのだろうな。2040年の大学生は変わらず渋谷で遊んでいるだろう。2040年の大手町から、OLたちの愚痴が聞こえてくる。世の中からは痛ましい事件も贈収賄も消えないだろう。心を変えることはそれほどに難しいし、科学のように知見を積み重ねていくような発展形式を持たないのだろう。未来は思ったよりも地続きだ。

 年末は、時々コーヒーを淹れながら映画を見続けることになる気がしている。 スクリーンには、生前のハートフィールドがいきいきと描かれていると最高だ。

近況

 大きなやつがようやく片付いたので、レスポンスが来るまでのだいたい1ヶ月くらいは、ゆっくり生活できそう。まずは、部屋の掃除機をかけて、洗濯物を干して、布団を冬用にして、冬の服を買ったりしたい。夏の服がわが部屋で地層を形成しており、ひどい様相。がんばったので、今日は日本橋にレイトショーを見に行きます。明日のランチは鰻にします。もうすぐ師走なので、忘年会もしたいと思います。